ドビュッシーの壮年期以降の作風については、実はまだあまり理解されていないように感じる。ドビュッシーといえばフランス印象派という言葉を想起する人が多いわけだが、これはドビュッシー自身が嫌っていたように、適切ではない。もちろん、たとえば映像第1集の「水の反映」では、音楽を聴くことで水面の様々な変化、光と影の揺らぎ、色彩の揺らぎなどを感じることができる。しかし、予備知識なしにこの作品を初めて聴いた人が皆そういうイメージを持つだろうか。曲名を知って聴くこと、また、フランス印象派の画家、モネの絵画と関連づけられるなどの知識があることでそう聞こえるのではないか。こういった予備知識がなければ、あの作品を聴いて、水の様態の変化を皆が感じるとは思えない。あくまでもあの作品のもたらす印象の一つとして「あえて例えれば」「水の反映」かな、程度であると考えられる。これは、この作品の2,3年後に作曲された前奏曲集でもそういった態度でドビュッシーが考えていたということは有名な話である。彼は前奏曲集全24曲の題名をすべて曲の冒頭ではなく末尾につけ、曲の先頭には番号しか書いていない。 あらゆるジャンルのあらゆる作品をほぼ書き尽くした晩年に、ドビュッシーは12曲からなる練習曲集を作曲した。もちろん、誤解のないようにしてもらいたいが、いわゆるハノンやチェルニーなどの音楽的な価値のないもの、教育的効果を上げるものなどとはまったく異なり、あえて類似するものがあるとすれば、ショパンの練習曲集であろう。面白いことに、様々な印象を想起させるパッセージや和音やリズムや音色を追求し「海」「映像」「前奏曲集」(他略)などの傑作を編み出しながら、結局、そういった音楽の基本要素自体が我々の情緒を揺さぶることに、ドビュッシーは相当昔から気がついていた。そして、最晩年に傑作「練習曲集」を作曲した。これは、表題がついているが、「前奏曲集」とは異なり、すべて曲の頭に書いてある。すなわち、「n(=5,8)本の指のための」「n(=3,4,6,8)度のための」「半音階のための」「装飾音のための」「反復音のための」「対比音のための」「組み合わされたアルペジオのための」「和音のための」である。これらの語法ないし奏法は「4度のための」を除き、すべて鍵盤楽器作品でそれまでの作曲家がさんざん可能性を追求してきた語法である。これらの語法を用いて、ドビュッシーは何か具体的なものを想起させる「印象派」ではなく、パッセージや和音やリズムや音色によって、かつて誰も表現したことのない複雑な情緒の揺らぎを編み出した。ドビュッシーの最晩年の傑作「ヴァイオリンソナタ」なども同類である。従って、ドビュッシーの鍵盤作品は膨大な量があるが、「練習曲集」が彼の最終到達地点であり、同時に鍵盤楽器音楽の最高峰の1つである。
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