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ピティナ特級ファイナル Ichiro Kaneko 2014年 8月22日(金) 01:37
ピティナピアノコンペティションの特級ファイナルが終了した。自分が10年近く前にお世話になったコンペティションなので、可能な限り毎年行くようにしている。今年も聴きにいって、本当にいろいろなことを得ることができた。出演された方々は、演奏についていろいろと考えることもあるだろうし、聴かれた方々も同じだと思う。でも、一つだけ確かなのは、彼らは、少なくとも自分の最善を尽くして演奏しているし、その誠意は伝わってくる。その中で、様々な指標から評価が決まる。あと13時間くらいすると、各カテゴリーの順位が次々と発表される。評価には、客観的なものと主観的なものが混在しているし、人によってさまざまだろうと思う。結果が自分の予想と一致することもあれば、そうでないこともあるだろう。でも、一番大切なのは、結果を知って、あと自分は何がたりていないのかを考察して行動に移すことだと思う。僕は少なくとも、コンペティションを受け終わってからの方がその前よりもよっぽど勉強した。歴史のあるコンペティションであれば、その肩書きは重く自分にのしかかる。でも、それが自分を成長させる。表彰式とレセプションでは、毎年1回、多くの大切な方々とお会いできる。今から楽しみだ。
2014年11月23日レクチャー&ピアノリサイタルに向けて(6) Ichiro Kaneko 2014年 8月 8日(金) 21:21
 ドビュッシーの壮年期以降の作風については、実はまだあまり理解されていないように感じる。ドビュッシーといえばフランス印象派という言葉を想起する人が多いわけだが、これはドビュッシー自身が嫌っていたように、適切ではない。もちろん、たとえば映像第1集の「水の反映」では、音楽を聴くことで水面の様々な変化、光と影の揺らぎ、色彩の揺らぎなどを感じることができる。しかし、予備知識なしにこの作品を初めて聴いた人が皆そういうイメージを持つだろうか。曲名を知って聴くこと、また、フランス印象派の画家、モネの絵画と関連づけられるなどの知識があることでそう聞こえるのではないか。こういった予備知識がなければ、あの作品を聴いて、水の様態の変化を皆が感じるとは思えない。あくまでもあの作品のもたらす印象の一つとして「あえて例えれば」「水の反映」かな、程度であると考えられる。これは、この作品の2,3年後に作曲された前奏曲集でもそういった態度でドビュッシーが考えていたということは有名な話である。彼は前奏曲集全24曲の題名をすべて曲の冒頭ではなく末尾につけ、曲の先頭には番号しか書いていない。
 あらゆるジャンルのあらゆる作品をほぼ書き尽くした晩年に、ドビュッシーは12曲からなる練習曲集を作曲した。もちろん、誤解のないようにしてもらいたいが、いわゆるハノンやチェルニーなどの音楽的な価値のないもの、教育的効果を上げるものなどとはまったく異なり、あえて類似するものがあるとすれば、ショパンの練習曲集であろう。面白いことに、様々な印象を想起させるパッセージや和音やリズムや音色を追求し「海」「映像」「前奏曲集」(他略)などの傑作を編み出しながら、結局、そういった音楽の基本要素自体が我々の情緒を揺さぶることに、ドビュッシーは相当昔から気がついていた。そして、最晩年に傑作「練習曲集」を作曲した。これは、表題がついているが、「前奏曲集」とは異なり、すべて曲の頭に書いてある。すなわち、「n(=5,8)本の指のための」「n(=3,4,6,8)度のための」「半音階のための」「装飾音のための」「反復音のための」「対比音のための」「組み合わされたアルペジオのための」「和音のための」である。これらの語法ないし奏法は「4度のための」を除き、すべて鍵盤楽器作品でそれまでの作曲家がさんざん可能性を追求してきた語法である。これらの語法を用いて、ドビュッシーは何か具体的なものを想起させる「印象派」ではなく、パッセージや和音やリズムや音色によって、かつて誰も表現したことのない複雑な情緒の揺らぎを編み出した。ドビュッシーの最晩年の傑作「ヴァイオリンソナタ」なども同類である。従って、ドビュッシーの鍵盤作品は膨大な量があるが、「練習曲集」が彼の最終到達地点であり、同時に鍵盤楽器音楽の最高峰の1つである。
2014年11月23日レクチャー&ピアノリサイタルに向けて(5) Ichiro Kaneko 2014年 8月 8日(金) 19:38
 スクリャービンは最晩年まで、ソナタ形式という、緊張と弛緩の揺れを最も効果的に表す手法を使い続けた。もちろん、詩曲「焔に向かって」作品72など、例外も存在はするが。そして、対位法も縦横無尽に使った。さて、このことは、いわゆるドミナントモーションを放棄したことによる、和声上での緊張と弛緩の揺れの希薄さの追求と矛盾しているように思われる。しかし、前述の、彼の目指した情緒表現、すなわち、神秘体験、神との合致などの追求には、ソナタ形式という正反合の表現様式は最適なものであったのだろう。神秘体験を調性感のない高次テンションの和音で表現し、神との合致をソナタ形式で表現したと論ずるのは多少乱暴ではあるが大きくは外れてなかろう。
 一方、ベートーヴェンなどが追求したソナタ形式が持つ正反合の表現様式は、ショパンの好んだ情緒表現には必ずしも適していなかった。彼が、彼と同時代のロマン派の作曲家(シューマン、リストなど)やその前のベートーヴェンに比べ、壮大過ぎるもの、大袈裟なものを好まず、繊細で複雑で微妙な表現を好んだからだろうか。いずれにしても、ショパンは、ロマン派のすべての作曲家の中で、ただ一人、モーツァルトやF.クープランのような、洗練され、複雑で軽やかさの中に深みを表現するような趣味を持っていたと思われる。そして、ショパンの作曲語法の近親性はドビュッシーよりもスクリャービンの方があるにも関わらず、その趣味の部分を引き継いだのはドビュッシーであって、スクリャービンではないと思われる。これが音楽の面白いところで、作曲語法に類似性がある2人の作曲家が目指した情緒表現が全く逆になることもある。情緒表現を追求するのが演奏家なのであるからこそ、我々演奏家には、彼らが情緒表現をするために極限までこだわって用いた言語=作曲語法に通暁することが求められるのである。
2014年11月23日レクチャー&ピアノリサイタルに向けて(4) Ichiro Kaneko 2014年 8月 7日(木) 21:22
 旋法(音階)は、2音間の音程の不均質性によって性格が決まる。長音階が明るい、短音階が暗いなどの情緒変化を与えるのも、7つの音の配列が異なるからである。ジプシー音階、半音階、教会旋法などは自然に発生したものであり、全音音階を含む移調の限られた旋法などは20世紀に人工的に作られたものである。
 スクリャービンは晩年に神秘和音というものを考案し、それを中心に作曲した。これは、我々が彼の音楽を聴いて感じる自由さ、しなやかさとは裏腹に、極めて厳密な書法になっている。基本の神秘和音は、いわゆる和声のX和音に3度ずつ音を重ねるテンションをつけ、しかも半音変位させたものである。たとえば、ハ長調のXを基準に考えれば、
g b (d) f a c♯ e
である。これらは順に根音、第3音、第5音、第7音、第9音、第11音、第13音と名付けられるが、神秘和音を用いるときには、これら7つの構成音のいくつかが省略されることがある。その際、これらの構成音の優先順位は、残る順に7音以降、3音、根音、5音の順である。これが音列やモチーフ作成の基準になっている。なお、古典和声では第5音が半音上方変位、下方変位することがしばしば起こったが、スクリャービンはこの第9音を自由に変位させ、場合によっては13音を下方変位させることもあった。
 7音以降のみを使用すると、根音がある場合に比べて元の調性感は薄まるが、異名同音で読み替えると半音高い調のTの長和音と短和音が同時に鳴っている効果が現れ、これがあたかもその和音に解決しているような錯覚を与えるように作曲されている部分も多い。他にもそういった語法は数多く見受けられる。
 結果として、この7つの構成音を1オクターブの中に配列し、1音を補うと8音からなる音階ができるが、これは、半音ずつ音階全体をずらすと4回目で元と一致してしまうため、移調の限られた旋法第3番とよばれる。つまり、転調は3回しかできないのである。しかし、前述のように構成音のいくつかを取り出すことで、我々が古典的に認識している和音にあたかもアッチャッカトゥーラ(装飾音の一種)がついた和音のように聞こえたりすることにより、転調が限られているという印象を一切与えない、多用な和声表現につながっていると考えられる。
2014年11月23日レクチャー&ピアノリサイタルに向けて(3) Ichiro Kaneko 2014年 8月 7日(木) 20:49
 スクリャービンの作品の多くは、速度が一定の状態で速度の変化を表現する。これは矛盾するように思われるが、正確に言うと、1小節の長さを一定にして、1小節を分割する拍子を変化させることで、あたかもテンポが変化しているように聞こえるのである。テンポを一定にすることは、作品全体の構造を明確にし、統一感をもつためにはとても重要である。また、スクリャービンはテンポルバートを素数連符で表現する。つまり、通常、連符というのは2の累乗であるが、3連符のみならず、5連符、7連符などを頻繁に用いる。拍子が3拍子であれば、当然割り切れない。これを正確に表現することによって、結果として「だらしない」「あいまいな」表現が生まれる。
 バロック時代は、付点の長さの比率は「良い趣味」という、多分に口頭伝承的な表現形態によって奏者に委ねられた。イネガリテ(不均等奏法)も同じである。しかし、口頭伝承が地域によって異なる事と、交通網の発達によって異なる民族で発展してきた音楽を演奏しなければいけないことが起こり、口頭伝承が頼りにならなくなった。そのために、記譜は時代とともに厳密になっていった。スクリャービンの記譜が、特にリズムにおいて複雑なのは、彼がイメージした、しなやかなルバートを正確に記譜しようとしたことによる。従って、奏者が音楽的な理由なしに勝手なルバートをすれば、リズムから彼の目指したあいまいさなどが消えてしまうのである。
2014年11月23日レクチャー&ピアノリサイタルに向けて(2) Ichiro Kaneko 2014年 8月 6日(水) 23:06
 更に、ショパンは作曲を重ねるに従い、ジャズでいうところのテンションを用いるようになっていった。それは晩年の作品である舟歌作品60などによく見受けられるが、若い頃の作品、たとえばバラード第1番ト短調作品23にもみられる。テンションを用いると、和音の根音がベースにない場合や根音が省略されることによって、和音や調が判断しにくくなる。こういった点を考えると、ショパンの作風は多用な転調とテンションの利用により、調が明確にわからなくなることによる情緒表現を目指したと考えられる。
 彼は1849年に没したがそれを引き継いだのがワーグナーなどである。しかし、ショパンのこういった特徴をつきつめたことによって完全な調性崩壊を作ったのはスクリャービンである。彼はテンションと転調をとことんまで突き詰めた結果、調を特定できない作風を確立した。それは、スクリャービンの晩年、作品番号でいえば58以降である。初期の作品にはショパンの影響が色濃く反映されているが、彼が素晴らしいのは、ショパンの語法を突き詰めた結果、ショパンの情緒とはまったく異なる独特な情緒表現(いわゆる神聖、神秘的なものといわれる)を確立したことである。それは中期の作品、たとえば詩曲作品32ですらすでにそうである。この点が、伝統的な和声の語法を根底から無視して新しい語法を確立したドビュッシーと最も異なることであると考えて良いだろう。しかし、ドビュッシーとスクリャービンに共通点がないわけではない。ドビュッシーは意識して新しい旋法を確立し、スクリャービンは結果として新しい旋法が確立されたという違いはあるが、彼らに共通するのは、「新しい旋法の確立」である。その手法は現代音楽というカテゴリーに属する作曲家達の多種多様な作曲語法の一部、たとえばメシアンやシェーンベルクなどの語法についての発想の源となっていったのである。
2014年11月23日レクチャー&ピアノリサイタルに向けて(1) Ichiro Kaneko 2014年 8月 6日(水) 23:05
 ショパンは素晴らしい作品をたくさん生み出したことは誰でも知っている。しかし、ショパンが大好きであるという人に、具体的に、どういった点で素晴らしいのかということを説明してもらおうとすると、明確な答はなかなか返ってこない。それはショパンの作品には優れた点がたくさんあるからであるが、その1つに和声の美しさと多用さがある。それについて少し述べてみたい。
 和声とは和音の連結によって人間の情緒に対し、緊張感の揺らぎや色彩の変化などを想起させる諸機能を意味する。そういう意味で和声をとらえれば、ショパンが作曲を始めた頃、すでに和声については200年以上の歴史があった。そこでショパンは、旧来の和声に対してポーランド土着の民謡の元となっている長調、短調以外の旋法(教会旋法を含む)を用いたが、マズルカなどの民族的な舞曲以外では、そのウェイトはそれほど大きいとは思わない。もちろん、それが果たしたショパンの語法の多用さはあるのだが、彼の素晴らしいところは、旧来の長調、短調という旋法の中で、それまで用いられてきた語法を徹底的に追求したことにある。
 現在の我々が和声進行と感じられる音楽が確立したのは多少乱暴に言えば1600年以降と考えて良いが、その当時は、楽器の調律上の制限もあり、転調は極めて限られていた。ところが、調律方法が改善され、あらゆる調に転調が可能となった1700年代初頭以降、さまざまな転調技術が生み出された。これは和声の揺らぎの拡張であるが、それをショパンは極めて洗練された方法で作品に用いた。もちろん、転調の可能性については、ベートーヴェンなども様々な工夫をしたし、ショパンと同時代のシューマンやリストもそうである。しかし、ショパンは、極めて教科書的な、奇をてらわない方法で表現した。その例がソナタ第3番ロ短調作品58の1楽章や夜想曲ト長調作品37の2などに見られる。これらの作品には、短い時間の中で、長調12種類、短調12種類の計24種類の調のほとんどすべてが含まれている。これは、言い方を変えれば、曲のほとんどの部分が元の調と異なるということであり、それは、最後の部分を聞かない限り調が判定しにくいということを意味する。たとえばシューマンの幻想曲作品17の第1曲はハ長調であるが、ハ長調の主和音が出現するのは曲の開始の10分以上経った曲の終結部分であることも意味は同じである。「最後の部分」というのは、最初の部分では調が判断できないということである。これは、ショパンならバラード第1番、第4番、ソナタ第2番第1楽章の冒頭などを聴けばすぐにわかることである。
 たとえばノクターンの作品37-2では、転調が複雑に、短時間に連続して行われ、一つの調にとどまる時間は中間部分以外ではほとんどない。それでも、元の調と転調後の調については明確な関連を見出すことができるが、幻想ポロネーズ作品61の一部にはそれすら困難な部分がある。一方でショパンは土着の旋法(教会旋法など)を露骨に用いることは、年をとるごとになくなっていったように思われる。
演奏会のご案内 Ichiro Kaneko 2014年 8月 6日(水) 16:04
皆様、酷暑の候、いかがお過ごしでしょうか。
さて、今年の11月23日(祝)に、レクチャー&リサイタルを行います。
詳細はこちらです↓

http://eplus.jp/sys/T1U14P0010843P006001P002133470P0030001

レクチャーは次の通りです。

「ショパンエチュードを効率的に仕上げる方法について」

内容:すべてのピアニストと多くのピアノ愛好家が必ず手がけるショパンエチュードですが、1曲に何ヶ月もかけて練習しなければ弾けなかったり、最悪の場合手を痛めてしまったりすることがあります。攻略法については、アルフレッド・コルトー、パスカル・ドゥヴァイヨンなどを始めとしていくつかの著作が出ていますが、多くの需要があるにも関わらず、決定的なものはないのではないかと思われます。このレクチャーでは、作品10と作品25の全24曲について、そのスタイルを類型化し、共通の手順で短時間に仕上げ、手に負担のかかりにくい技術を提案します。当日は資料を配付する予定ですが、パデレフスキー版またはエキエル版などの楽譜をご持参ください。

その後のコンサートは次の通りです。

前半

C. ドビュッシー:12の練習曲

後半

A. スクリャービン:ソナタ第7番「白ミサ」作品64

A. スクリャービン:詩曲「焔に向かって」作品72

F. F. ショパン:ソナタ第3番ロ短調作品58

皆様におかれましてはお忙しいとは存じますが、特に関西方面の方々には、是非ご来聴いただければ幸いです。

よろしくお願い致します。

金子一朗
Ichiro Kaneko 2014年 2月20日(木) 22:37
デジタル大辞泉によれば、芸術家の定義は芸術作品の創作活動を行う人とあり、芸術の定義は特定の材料・様式などによって美を追求・表現しようとする人間の活動およびその所産となっている。とすれば、私は、ピアノという楽器を通じて美を追究、表現しているので芸術家であることになる。ただし、音楽を美の一であると定義するのは、その構成が明暗や美醜などによってなされていることから考えると、美という言葉自体の定義をし直さなければならず、多少議論の余地はあるかもしれない。
 さて、私は音楽大学を出ていないが、それが理由でこれまで様々なことを言われてきた。それはねたみもあったし、いわれのない因縁もあったし、ある形への強引な決めつけでもあった。若い頃は、そういうことが気になり、音楽大学を出ていないことのコンプレックスや音楽大学への憧れのようなものと混ざり、落ち込むことが多かった。しかし、芸術家というのが特定の資格や学歴を必要とするというのは、その定義には含まれていない。また、その評価についても、音楽について深く研究していることと人気があることは必ずしも一致しないこともある。そう思うようになってからは、人から気分の悪くなるようなことを言われても、あまり気にならなくなった。いや、むしろ、そういうことを言われたことが勉強や研究や練習などの原動力の一部になることもあった。
 今朝書いたブログの後、浅田真央選手について、森義朗元首相が「必ず転ぶ」と講演で言われたことが記事になっているのを知った。発言についての私の感想は他の多くの方々の感想とほぼ同じで、立場、時期、内容などの面でとても褒められた発言ではないと思う。しかし、私は、それを浅田真央選手が読んだら、ひょっとしたら、この後の演技がうまくいく可能性が出てきたかもしれないと思った。それは、今置かれている状況が精神的に追い込まれた状態であると想像しているからである。このまま、皆が同情したり応援したりしても恐らく状況は変わらないように思うのである。しかし、森氏の発言を浅田選手が知って、一種の反骨精神が生まれると状況が変わるかもしれないと思ったのである。
 是非、最高の演技で森氏を見下して欲しいと願うばかりである。また、そのときの森氏の発言を聞きたい。そのとき、ひょっとしたら、「自分のあのときの発言は、浅田選手がうまくすべれるためにわざとしたものだ」などとおっしゃるのかもしれないが(笑)。
Ichiro Kaneko 2014年 2月20日(木) 07:48
私はあまりテレビを観ないので、ソチオリンピックも例外ではなく、ライブは観ずにニュースでやっているダイジェストを観る程度である。
さて、今朝、フィギアスケートの浅田真央選手のショートプログラムをニュースで観て、いくつか関心を持ったのでインターネットの情報を見たところ、真偽のほどはわからないが、自分のピアノ演奏体験と関連づけられることがいくつか散見された。
私の場合、練習時間が少ないため、何十回も繰り返し練習している時間はない。弾けないところや、満足のいかない部分については、なぜそうなのかという原因を分析して練習する。それで覚え込んだものはなかなか忘れない。そして、演奏会でもあまり大きなミスは犯さない。しかし、できない理由を考えずに何十回も繰り返し練習してできるようになったことは、本番でうまくいかない可能性があるため、メンタルのコントロールも難しい。
また、本番直前では、疲れをとることが優先されるため、長時間の練習は避ける。本番を迎えるときに、筋肉が疲れ、思考が停滞してはマイナスだからである。
浅田真央選手は、当然のことながら素晴らしい指導者につき、メンタルトレーニングや体調管理も万全であろうと思われるが、本来の実力が発揮されなかった場合、私のような素人は、実力とは別の、今述べたような事前の基本的な所作がどうであったのかということについてかなり興味がある。そういった報道があれば、浅田選手のみならず、多くのスポーツ選手、また、私を含めた、人前でパフォーマンスをするすべての人達の道標となると思う。
今後の浅田選手の活躍も大いに期待しているが、それとともに冷静な分析の報道を期待したい。
加藤宏隆先生 Ichiro Kaneko 2013年11月15日(金) 18:17
私の職場、早稲田中学高等学校は優秀な先生方がいらっしゃるが、たとえば、音楽科では、加藤宏隆先生が教鞭をとっている。

http://ameblo.jp/katoh1/

先生は、先日、世界最高峰の指揮者、リッカルド・ムーティ氏と共演するなど、輝かしい、今が旬の声楽家である。日経新聞の11月14日夕刊にも、優れた演奏家であることを示す演奏評が掲載された。
以下は主催者の情報である。

http://www.tokyo-harusai.com/program/page_1693.html

いわば、現代クラシック界の最前線で、世界中で演奏活動をしている方に教わることができる本校の生徒は幸せである。また、教育機関に関わらず、組織というものの本当の価値は、そこに所属する人であり、本校では教職員であり、生徒達であり、本校を巣立った卒業生達である。
先生は演奏活動と本校での教鞭の両立は大変だと推察するが、本校としてはとてもありがたいことである。これからの益々の活躍を期待したい。
動画を載せました Ichiro Kaneko 2013年10月28日(月) 21:55
次のYouTubeのIchiro Kanekoアカウントに、8月27日に東京文化会館で行われたリサイタルの収録の一部を載せました。
http://www.youtube.com/user/kanekoic/videos
曲はショパン:エチュード作品25、ベートーヴェン:ソナタ作品31-2「テンペスト」、モンポウ:庭の少女たち(アンコール曲)
です。
また、2010年8月30日の杉並公会堂で行われたリサイタルの収録の一部である、ドビュッシー:映像第1集も載せました。
リサイタル特有の傷はありますが、お聴きいただければ幸甚です。

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