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金子一朗 2012/ 4月 5日(木) 01:26
 もともと、フィグールは、人間が直感的に持っている、または感じる音楽的な情緒を表す。たとえば、ある長調のメロディーで、音階的な音型が上行すれば、とても気分が高揚する。例を挙げるとキリがないが、今すぐに思いつくものであれば、たとえば、バッハの平均律クラヴィア曲集で言えば、2巻のD-durのプレリュードのテーマであったり、ベートーヴェンであれば、3番のソナタC-durの4楽章のテーマや13番のソナタEs-durの1楽章の中間部のC-durの部分のモチーフである。これらは、いずれも、Anabasisというフィグールである。
 恐ろしいことに、J.S.バッハは、ほとんどの作品において、我々が認識不能なレベルと思えるほど、こういった形で音型や和声の響き、調の選択、楽器の選択の端々に渡って何十、何百と言えるほどのフィグールを縦横無尽に用いることにより、音楽的に極めて高いレベルの膨大な量のカンタータや鍵盤楽器の作品、その他を作曲できた。(続)
現代のピアノという楽器の性能 金子一朗 2012/ 4月 3日(火) 20:06
 現代のピアノの能力や響きをそのまま使うと著しく様式感がずれる場合が見受けられる。バロック時代の作品については、単純にメロディーと伴奏でできている作品(非声部様式)もあるが、それでも、伴奏部分のバスのラインについては、古典派のものより複雑である場合が多く、メロディーと同じだけの意識が必要である。しかも、3つ以上の声部になることは頻繁に起こるため、これらを同時に意識して表現する能力が求められる。特に、和声進行や転調については、我々が親しんでいる比較的新しい時代のものに比べ、調律の関係もあって、用いる和音や転調についてはロマン派中期以降に比べれば単純なため、一層、そのもっている和音のニュアンス、転調のニュアンスの表現は確実に表現しなければいけない。
 こう述べると、即物的な表現に思われる方がいらっしゃるかもしれないが、それを大きく補完する概念がフィグールである。いや、むしろ、フィグールの方が主で、これまで述べてきた即物的な理論が従かもしれない。(続)
2つ以上の異なる旋律を同時に弾く 金子一朗 2012/ 4月 2日(月) 21:12
 多くの場合、声部の多さを苦労せずに表現できることだけでもハードルが高い。たとえば、バロック時代に想定されている鍵盤楽器は多くの場合チェンバロであり、それに適した運指で演奏可能なように書かれているが、打鍵する強さやスピードで音量が原則的には変化しないチェンバロに比べ、モダンピアノは大きく変化するため、ちょっとしたポジション移動や運指、打鍵の角度が、音量や音色、音質の変化に大きく影響するため、チェンバロに最適な運指が、モダンピアノでは通用しない場合が多々見受けられる。従って、相当な工夫が要求される。4音からなる和音の響きのバランスを考えてみても、チェンバロの場合、どんな運指、どんなポジションで演奏しても、ほとんど響きは変化しないが、モダンピアノの場合、細心の注意を払わない限り、バランス良く響くことはない。また、モダンピアノでは、メロディーだけを強い音で演奏できるから、極端に言えば、たった1本のメロディーラインをフォルティシモで演奏することができるが、チェンバロの場合、音量は変化しないことから、作曲家は、同時に鳴っている音の個数が多ければ音量が大きく、少なければ音量が小さくなることを用いている。D.スカルラッティのソナタなど、チェンバロで演奏しても、チェンバロがあたかも強弱のつく楽器のように聞こえるが、それはこういった性質を巧みに利用しているからである。それは、バッハなど、他のバロック時代の作曲家も同じである。それをモダンピアノでも反映させないと、当時の作曲家が考えた強弱が表現されないことになる。(続)
指を速く動かせれば何でも弾けるか 金子一朗 2012/ 4月 1日(日) 18:07
 モダンピアノでJ.S.バッハやクープランなどのバロック時代の作品を演奏するには、いくつかのハードルがある。いくつか列挙すると
声部の多さ(3つ以上の異なるメロディーを同時に歌い、なおかつ縦の和音の響きのバランスと変化を表現すること)
当時の様式を正しく理解すること
(装飾音の奏法、ルバート(イネガルなど)、舞曲、アーティキュレーション、記譜法のルール(リズムなど)、修辞法、運指、楽器、音域、音量、音質など)

 易しい作品は、多くの場合、右手が旋律で左手が伴奏という様式(非声部様式)(たまに左右の役割が逆転しても本質的には同じ)であり、その形だけしかなじみがないと、とても困難である。たまに、とても速い速度の作品を流暢に演奏する人が、バッハなどを演奏するとそうでもないことがあるが、それは、こういった様式の無理解と訓練の欠如によるところが大きい。面白いことに、そういうことがわかると、速い速度の作品を聴いても、その人がバロックをうまく演奏できるかどうかが聴かなくてもわかるようになる。それは、そういった欠点がいろいろなところに反映されるからである。もちろん、自分にとってはどちらの様式の作品も、いつまでたっても難しいと感じているのは当然であるが。(続)
シェイクスピア 金子一朗 2012/ 3月31日(土) 03:45
 実は、現代のグランドピアノ(モダンピアノ)でバッハ、ヘンデル、ラモー、クープランなどのバロック時代の作品を演奏することは、似たような現象を引き起こしている。これは、それらの作品が、現代のグランドピアノが存在しない頃に作曲されたことが原因である。バロック音楽をグランドピアノで演奏することは、よっぽど様式を正しく理解して演奏しない限り、コックニーでシェイクスピアの劇を演ずるのに等しい。しかも、面白いことに、これがモダンピアノの演奏家に気がつかれ、実際の演奏に活かされ始めたのは、まだ20年くらいしか歴史がないように思う。つまり、少なくとも、ぼくの世代から上の世代の人たちは、彼らが仮に音楽の専門機関でピアノを勉強してきたとしても、本来あるべき演奏スタイルをその頃に勉強していなかった可能性がある。だから、一昔前の名ピアニストの演奏するバロック時代の作品の演奏が、現代の標準からすると、とても違和感のある演奏であることが多い。実は、メンデルスゾーンが、19世紀前半に、長い間忘れ去られていたバッハの作品、特にマタイ受難曲を再演したのは有名な話であるが、いろいろな記録を読むと、どうやら、現代の最新の考古学的な考察に基づくバロック時代の作品の演奏様式とは相当かけ離れ、過度にロマンティック過ぎる演奏であったようである。その後、引き続き、19世紀後半のロマン派後期ではブゾーニなどがバッハの多くの作品をピアノソロ用に編曲しているが、私は、若い頃から様式としてどうしてもなじめない。それは、過度にロマンティックであり、響きが重厚過ぎるからである。モダンピアノの表現力を直接的に用いるとバロック時代の様式にあわなくなるのである。ぼくは、その感覚が、記憶をたどれば、中学の頃からあった。(続)
ベッカムとコックニー 金子一朗 2012/ 3月30日(金) 06:49
 デヴィッド・ベッカムという、数年前まで世界中のサッカーファンの注目を浴びていた最高のサッカー選手がいる。彼のフリーキックはあまりに芸術的で、ぼくも何度も観たものだ。また、モデル業もするくらいの美男子(確か、記憶によると、男性の下着の広告に出ていたような気がする)である。彼はイギリス人であるが、あるときに、ぼくは何かのインタビューをテレビで観て、彼の英語がほとんど聞き取れなかった。しかし、どこかで聞いたような発音だったと思い、しばらく考えたら、映画「マイ・フェア・レディ」で、大女優オードリー・ヘップバーンが下町の花売り娘から淑女へと教育されていく、その最初の、訛った英語と似ていると思った。また、ぼくが勤めている教育機関で20年以上前に辞められた英語の先生が、校内の一般教員向けの講座で、彼の専門であるイギリスの様々な方言について、実際の発音も交えながら講義をされていたことも思い出した。それは、コックニーという、ロンドンの下町の、労働者階級で話される、一種の方言である。その英語の先生によれば、これは、アメリカのネイティヴスピーカーであってもほとんど理解できないとのことだった。日本での体験を考えてみると、ぼくが以前、東北に旅行したときに泊まった宿の仲居さんの言葉が全然聞き取れなかったことがあった。で、ぼくは、美男子ベッカムが、その風貌から想像して、格調高いブリティッシュ・イングリッシュをしゃべると思っていただけに、とてもびっくりした。(続)
ルイ14世 金子一朗 2012/ 3月30日(金) 00:18
 また、演奏家の活躍する場は減少していると思う。たとえば、音響機器がない時代は生演奏しかあり得なかった。ルイ14世は、常にBGMとして自分の周りで音楽を演奏させていた。しかし、今は、ipodを始めとして、誰でも、どこでも、自分のお気に入りの音楽を聴くことができる。そして、至る所でBGMが流れている。また、演奏のレベルは今の段階では超一流の演奏家にはかなわないにしても、ほとんどの歌い手が歌うことができない難曲を、たとえば、「(初音)ミク」のように、パソコンの音楽ソフトで、自分の気に入ったように間接的に演奏することができる。これも自分で演奏することの中に含めれば、自分で演奏できる喜びは、人の演奏を聴く喜びよりも遙かに大きいと思う。また、少なくとも、著作権の関係で、60年以上前に亡くなっている作曲家の作品のほとんどは、楽譜も音源も、自宅で、インターネット環境さえあればほとんどが無償で手に入るのだから、もし演奏会に行く価値があるとすれば、それ以降の作品を知りたいという欲求がある場合などに限られてくるのではなかろうか。
 もし、ぼくが考えているようにクラシック音楽の環境が変化していったら、その先に何が起こるだろうか。すでにその流れは、静かに、着実に始まっているように思う。もちろん、読み書きなどと比べ、ピアノは生活上の必須のアイテムではないので、ある割合の人しか学ばないことから、識字率と同様に扱うことはできないだろう。しかし、少なくとも、演奏家には、今後、現在ある状況に加え、何か、ある、抜本的に異なる付加価値を持つことが必要であるということになるだろう。少なくとも、一日中、黒と白でできた重たい塊と狭い部屋で格闘しているだけでは難しいだろう。
束縛 金子一朗 2012/ 3月28日(水) 21:16
 もちろん、良い音響空間であるホールで聴く演奏は、自宅のパソコンのスピーカーから聴くものよりも各段に素晴らしい。しかし、その概要は自宅のパソコンで好きなときに、ほとんどお金を払わずに楽しめる。また、ホールで聴いている場合、聴き直しもできないし、気になったところについて、楽譜を開いて調べることもできない。素晴らしい曲をもう一度聴きたい、そういうこともできない。そう考えていくと、よほど好きな人でない限り、わざわざ時間を使って出かけていき、そのホールで時間を束縛され、演奏中に飲食も会話もできない状態になるという行為に高いお金を支払う人が減っていくのではないだろうか。しかも、演奏の秘密が解き明かされ、自分で演奏できる人たちがどんどん増えていけばなおさらである。聴くだけよりも、自分で弾いた方が何倍も楽しいからである。そして、ぼくの知人には、バロックから近現代の作品まで、自在に演奏できるハイレベルのアマチュアがたくさんいる。つまり、特別な人でなくても、適切な訓練をすれば、ある程度の表現力が身につくということである。であれば、本当に音楽が好きなのであれば、リスナーのままでいる必要はないだろう。これは、演奏家の神格化の崩壊につながるだろう。(続)
識字率 金子一朗 2012/ 3月28日(水) 00:29
 しかし、こういう行為が、一方で演奏市場の破壊につながりかねないという不安感もある。クラシック音楽の、ごく一部の演奏家の演奏を多数の人たちが高いお金を支払ってホールで聴くという状態は、ぼくが考えていることが実現されていったら、ほとんどなくなっていくのではないかと思う。たとえば、ショパンの有名な作品を、一万人に一人しか演奏できないのと、二人に一人が演奏できる状態を考えたら、前者は演奏者が経済的に成り立つだろうが、後者では成り立たない。もっと極端にすれば、字が読めることは、今の日本ではまったく商売にならないが、今から千年前の日本なら商売になっただろう。日本人のほとんどの人が英語でコミュニケーションできるようになったら、英語の通訳という仕事はほとんど意味をなさなくなるだろう。(続)
Linuxの開発 金子一朗 2012/ 3月27日(火) 21:03
 しかし、現在では、たとえば、僕のような者でも、難曲で知られるアルベニスの組曲「イベリア」の第4集やバルトークの組曲「戸外にて」などの演奏を自分なりの方法でYouTubeに公開したりしている。所々、演奏困難、演奏不能に見える部分も、映像で手が映し出されているために、興味のある人は、その秘密を解き明かしやすい。他のピアニストも、多くの画像付きの音源を公開している。そもそも、ぼくはこういうことを秘密にしようという発想がないために、ぼくはそれを明らかにしている。ぼくがそういう発想を持たない理由は、例えれば、フリーソフトウェアのLinuxの開発状態、つまり、世界中のボランティアの開発者が手を加えてよりよい形にした最高のOSの1つが作られていることに近い。ぼくは、どんな作品でも、なるべく多くの人が自分で演奏できるようになることは、作品が多くの人に知られ、聴くだけではなく演奏されるという風に考えていて、とても良いことだと考えているからである。聴くだけではなく、実際に弾いて、その作曲語法を知ることで、作品をより深く知り、素晴らしい作曲家との個人的な対話が可能だからである。自分が執筆した「挑戦するピアニスト」やピティナのアナリーゼ楽譜の執筆の仕事を引き受けるのも同じ理由だ。そこには、楽譜から音にするために、どういうことを考えなければいけないのかということ、つまり、ふつうは高いレッスン代を支払って個人レッスンで知ることができる多くの情報が書かれている。ここにも、演奏の秘密というものを解き明かそうとするぼくの発想が根底に流れている。そういう本は最近、特に増えてきていて良いことだと思っている。(続)
神秘性 金子一朗 2012/ 3月26日(月) 23:48
 他にも、商業的な問題として、いくつか考えられることがある。それは、この30年の間に、クラシックのピアノの世界では、以前よりもとても多くの演奏家が、いわゆる難曲といわれている作品を演奏するようになった。これは、古くはLP、そして、CD、DVD、そして、現在はYoutubeなどが深く関わっていると思う。演奏の秘密が、これらによって解き明かされていったということである。著作権が保護されていたとしても、これらのメディアを通じて演奏行為を演奏家が明らかにすることは、結局、演奏の秘密も、神秘性も明らかにしてしまうことにつながると思う。たとえば、イタリアのバロック時代の作曲家の楽譜はとても省略が多い。低音の声部と数字だけが書かれ、その上の和音などがほとんど書かれていないものも多い。この理由の中には、著作権の保護という概念がない当時に、演奏家が自分の演奏の秘密を明らかにしないために行われた可能性が高いようだ。ロマン派の最高のヴァイオリニストとして名高いパガニーニも、自分の多くの作品の楽譜を出版しなかったらしい。これも、彼の演奏の秘密を他にばれないようにしたことが理由と考えられている。だから、彼は自分の技術を多くの人に教育という形でほとんど伝承しなかったらしい。(続)
影のない女 金子一朗 2012/ 3月26日(月) 19:53
ぼくは、ぼくが勤めている教育機関で生徒のオペラ鑑賞の企画に携わっているが、演目を選ぶのにはさまざまな妥協点を見つけなければいけないことに苦慮している。ほとんどの生徒がオペラ鑑賞は初めての体験であり、事前学習を入念に実施しても、全員で鑑賞が可能なオペラは難解なものにはできない。特に、他の一般のお客さんもいる中でのマナー教育も重要だ。だから、たとえば、「カルメン」「トスカ」「トロヴァトーレ」「アンドレア・シェニエ」「愛の妙薬」「椿姫」「ボエーム」「魔笛」「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」「セビリアの理髪師」「道化師」などは鑑賞可能であっても、「薔薇の騎士」「カルメル派修道女の対話」「トリスタンとイゾルデ」「ポッペアの戴冠」「ボリス・ゴドノフ」「ヴォツェック」「エレクトラ」「ナクソス島のアリアドネ」「影のない女」などは厳しいだろう。
真に価値のある作品が商業的に成り立つとは限らないことは明白だ。そして、これはピアノソロの演奏会についても同じである。(続)
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