音楽の素晴らしさを知っている人は理解しやすいと思うが、どの音楽が好きなのかについては、その人それぞれであり、その点について善し悪しや上下などない。なぜならば、音楽は、それを聴く人の感情に直接訴えるものであるべきで、ある人の感情に訴える音楽が他の人の感情に訴えるとは限らないからだ。美空ひばりの演歌に感動し、人生を重ね合わせる人もいれば、キース・ジャレットやビル・エバンスの演奏するピアノを至高のものとする人がいても良い。誰がどれを好むかは嗜好の問題だが、その絶対数はそれぞれの音楽で大きく違うだろう。「薔薇の騎士」が商業的に易しいと思えないのは、優れた数学や物理の専門書がミリオンセラーにならないのに似ているだろう。だからといって、商業的に成り立たないから価値がない、つまり上演されないということにしてしまうのはどうだろうか。バッハの作品は、難解である、その他の理由で、彼の死後、長い間忘れ去られていたが、19世紀前半に復刻されて以来、現在はクラシックのみならず、あらゆる音楽ジャンルでその素晴らしさが理解され、応用されている。しかし、その、忘れられた期間によって、彼の偉大なカンタータを始めとした多くの作品が完全に失われてしまった。 数学や物理の専門的な理論は、自然科学分野のみならず我々の社会生活の根底を支えている。たとえば、インターネットを使って買い物をするときに個人情報を入力したときに、多くの場合、その安全性が保証されているが、それにはある数学の分野を用いられていることを知っている人は少ない。多くの便利な技術の中には、我々の目に見えないところで数学や物理の理論が用いられている。つまり、現在の多くの人が興味を示さない分野があったとしても、商業的に成り立たないものをすべて削るというのは危険な発想である。だから、学校の教科書で、現在売れ筋の知識だけを扱うのは危険である。しかし、市場はボランティア活動の場ではない。その乖離をどう埋めるのか。(続)
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