2011 06月 11日

私の「あの日」2011、3,11悪夢の日(空港編)


本日6月11日。あの日からちょうど3ケ月がたちました。
未公開写真と共に私の「あの日」を今日このブログ書きます。

私はあの瞬間はグアムに向かう為に成田空港第1ターミナル出国ゲートでチェックインを済ませてちょっとお茶でも・・・。そんな時でした。
頑丈なはずの空港のターミナルの天井から何かが大きな音を立てて落下してきました。まさか?こんな大きな国際線のターミナルがこんなに揺れるとは・・・・。本当に大きな揺れでした。つぶれるかも・・??でも心の中では「大丈夫!絶対に大丈夫!!日本の国際空港は頑丈だ!だから絶対に壊れない!」と自分自身に言い聞かせながら私は不安と恐怖の中で過ごしました。
外へでると駐車してある車が何台もまるでボールのように地面から中に浮いていました。その状況を見た私は関東大震災が来た!と直感するほどの大きなゆれでした。


2回目の大きな揺れのあとやっと空港公団から指示が入りました。
(それまでは何の誘導も放送もありません。)
外に出るべきか?それとのターミナル内が安全なのか?自己判断でした。

この写真は一般のお客さんを避難させた後の空港職員が1階駐車場へ避難している様子です。高速道路は全面閉鎖となりました。もちろん京成もJRも動きません。東京へも那須へも戻れないのです。



全員1階駐車場に集められました。大きな荷物を持った人はかわいそうです。私はもう預けた後でした。
情報が全くありませんでした。
ただビル内は天井落下の危険ありと言うものでした。

そんな中人だかりのある方へ行ってみると停めてあった車のドラーバーが皆に聞こえるようにエンジンをかけてラジオで情報を流してくれていました。それによるとコンビナート爆発や大きな津波などの情報。関東大震災でなく東北だ。ということが分かりました。そのうち雨が降ってきました。寒かったです。本当に寒かったです。



夜には寝袋が配られターミナルの床で一晩を明かしました。
寝袋を受け取る情報も入って来ない中で行列の後ろに並んでやっと1つもらうことが出来ました。暖房もなく寒かったです。頻繁に襲ってくる余震に不安と恐怖の1晩でした。東京の家族とも夜遅くなってやっと携帯電話がつながり全員無事であることがわかりほっとしました。
水を配っていたのですが、残念ながら数が足りなく私は受け取れませんでした。しかし私がひとりの男性空港職員に「お水は何処でもらえるのでしょうか?」と聞くと「もう終わってしましました。」私はあきらめて歩き出しました。するとその男性は私に自分のポケットの中の1本の水を差しだしてくれました。「ありがとう!!」

しかしこの苦しい中で韓国人か中国人?だったか寝袋を一人で2枚も持っていて1枚は下からの冷気をシャッツアウトそして少しでも柔らかい所で寝たいのか2枚ももらって寝ている人を見かけました。寝袋の数がなくってそのまま横になっている人もいました。又別の韓国か中国人の男が私と混みあう通路でぶつかりました。その男は私の背中を叩いてきました。
文句を言う力もないほど疲れきっていた私は相手にしないで他の寝る場所を探してひとりフラフラと歩き出しました。

本当に日本人はこんな状況下でも物資を奪いあいませんでした。
この時に私は日本人であることに誇りを感じました。
誰かだわかりませんがお水を下さった日本人男性の方3ケ月も経ってしまいましたがこのブログを通じて心からありがとうございました。



寒くってお腹が空いて、余震で不安と恐怖で何処にも行けず携帯もほとんどつながらず・・私も空港で避難者でした。翌朝の空港で見た朝日が今でも忘れません。きっとこれからも・・・・・。

★あれから3ケ月がたったんですね。私の復興、こびとの森の復興。頑張って来た3ケ月間でした。
最初の1ケ月は無気力となりこのブログも書けませんでした。脱落感とこれからどう生きていくべきか?悩んだ月日でした。でも2ケ月目から元気に立ち上がることが出来ました、それはゴールディンウイークのたくさんに人々がこびとの森に来て下さった事と震災後に4組の家族が来て下さいました。その人々から元気をもらいました。私よりもっと怖い経験」をした被災地から来て下さった人たちだったから・・・。

明日のブログは3月11日に震度6が襲った那須高原の私の自宅9階のリゾートマンション編です。
高層住宅の揺れは大きかった!未公開写真と共にお知らせいたします。


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