2008年6月17日 (Tue)

多謝


父のお通夜と告別式には現役引退後にもかかわらず
大勢の方が参列くださり賑やかにお見送りできました。


生前の功績に対し、名古屋市長から感謝状も贈られました。

父がスポンサーとして応援していた日本舞踊の会や、民謡同好会からの供花も
たくさん飾られ、父も喜んでいると思います。


父は自分亡き後、兄と私が困らぬよう葬儀のしきたりから一周忌までの流れ、
お寺への作法など事細かに書き記し残してくれました。
とっても役立つマニュアル本(笑)


入院費用や葬儀代金もすぐに使えるよう引き出して置いてくれてありました。
どんな気持ちで一人、準備を進めていたのかと思うと察するに余りありますが
几帳面な父らしいと微笑ましく思える日が来ると思います。


質素に控えめに告別式をあげて欲しいと書いてあったけど
賑やかに盛大に送らせて貰ったよ。
私は派手に泣きすぎて一週間経っても目が腫れっぱなし(笑)
それでも良いよね?


細かいところでは、もっとこうしてあげれば・・・とか、あの時こう言ってあげれば・・・
なんて悔やみだしたらキリが無いけど、私なりに出来る限りの事は出来たような気がするよ。


父が話せる最後の日に言ってくれた言葉。
向こうに行ったら母と姉に自慢するのだと。
兄と私は最高の子供達だと。
この言葉で全て救わた気がします。

嬉しいよ、もう逢えたん?
3人で仲良く笑ってるん?
たった4年間で3人もの大切な家族を見送るのは辛かったけど、
母と姉に迎えられれば父の痛みや苦しみは消えてなくなるね。


父が亡くなって以来、夫は仕事で神がかり的な奇跡が連発しているのだと教えてくれた。
全てがあり得へんほど好転してるらしい。
「おとうさんのお陰だと思う」と言ってくれたよ。
ありがとうね、おとうさん。


今日は病院へ支払いとお礼に行ってきたよ。
先生に入院証明書のお願いもしてきたからね。
兄は毎日、役所や銀行、郵便局を走り回り後片付けをしてくれてるよ。
明日はお香典返しの打ち合わせと注文をするからね。


毎日みんな頑張ってるよ、安心してね。
PIXYは夜、誰も居ない部屋に向って「くれくれ」ポーズをしているね。
バナナでもあげてるんやろ?
翌朝とんでもなく大量のうんが出て驚くよ。


居なくなった気がせんわ。
前よりずっと傍に居る気がするよ。
見守ってくれてるんやね、ありがとう。


お香典を送って下さったお友達、何度も様子を見に来てくれたお友達。
メールやコメントを下さるお友達。
みなさんに元気貰ってます。
ご心配おかけしましたが、毎日少しずつ進んでます。
前を向いて歩き始めました。


みなさんに感謝してます、心を込めてありがとう!
父を応援してくださって、愛してくださってありがとうございました!
2008-06-17 23:07 in 自分 | Comments (23) #

2008年6月13日 (Fri)

父はとても頑張りました。


昨日もたくさんのコメントありがとうございました。
他人の闘病記なんてつまらないでしょうに
父の事、少しでも読んでくださる方が居て嬉しいです。
昨日の続きを書きます。
長くなると思うので適当に読み流してください。



6/7(土)
私が到着するのを待っていたかのように先生が部屋に入り
「昨日の夜から体調が急変しました。
熱も高いし肺炎を併発している可能性があるので
レントゲンと血液検査をさせてください。
もし肺炎になっている場合、かなり危険な状態です。
今日明日が山場です・・・・」


・・・・・先生の顔をボ~っと眺め、言葉を理解するのに時間がかかった。


検査結果が出るまで父の身体をさすり続け、声をかける。
苦しそうに全身で息をしながら、見えない目を開けようとしているのが解った。
私の声に反応して涙を流す父。
私は一生懸命「純子だよ、わかる?お父さん、純子だよ」と何度も声をかける。
弱い力ながらも手を握り返してくれた父。


検査結果が出て、
「やはり肺炎を併発していると思います。
何とか今日明日を乗り越えられたとしても、長くは期待できない危険な状態です」
先生の話を呆然と聞く。


抗生剤の点滴投与が始まった。

兄・夫・名古屋の叔母に連絡を入れる。
兄から四国の叔母に連絡を入れてもらうよう頼む。


病院の丸椅子に座り父の身体をさすり続ける。
悶絶する父の顔を辛くて可哀想で見ていられない・・・
私が泣いてばかりいると、父がうわ言のように声を出す。
きっと「自分の為に泣かせてごめんなぁ」と言ってくれてる気がした。
私の涙が父の手や顔にポタポタ落ちる。
父も泣いているようだった。

今しか言う時は無い。
「おとうさん、大切に大切に育ててくれて、ありがとうねぇ」
「なんにも恩返し出来ずに、ごめんねぇ、ありがとう」
私は父への感謝の気持ちを言葉にした。
父の目から涙がつたう。


兄・夫・叔母が到着し現状を伝える。
父は3人がかけてくれる声にも少し反応する。
兄は一旦職場へ行き、父を囲んで叔母達と話す。
「お父さん、阿波踊りの歌を歌ったんやって」と話していると
父は手を挙げ声を出す。
唄いたいん?踊りたいん?
若い頃は一晩中、連の先頭で踊りとおしたんやもんねぇ、おとうさん。

叔母と夫が帰り、また父と2人きりになると涙がこぼれる。
日が暮れた寂しい病室で、涙が止まらず困る。

看護師さんに管で喉の痰を抜いてもらうのが苦しそうで見ていられない。
父が苦しそうに声を上げる。
血痰がゴボッと取れた。肺から出血して、かなり危険なのが解った。
「逢わせたい方がいらっしゃったら連絡して下さい」と言われる。


熱だけでも引いて欲しいが血圧が低すぎて解熱剤投与が出来ないとの事。
一日に何度も何度もアイスノンと氷枕を交換する。

昼間からずっと丸椅子に腰掛け、身体を丸めて父を撫で続けて腰が痛くなってきた。
用意して下さった簡易ベッドに横になろうとすると、父が苦しそうな声を出す。
手を挙げ私を探しているようだ。
すぐに丸椅子に戻り、手を握り声をかけると安心する様子。
一晩中、父の身体を撫で続ける。

夜中の二時頃から一時間近くしゃっくりが止まらず心配。
土日は半分しか居ない病院スタッフ。
人が少ない分、余計に不安が押し寄せる。

明け方、兄が来てくれる。
兄も声をかけ、手を握る。段々握り返してくれなくなる。
父の苦悶する姿を兄も見ていられない様子。

長い長い不安な夜が開け、兄が家に帰る。
私は結局、一晩中丸椅子で父の顔を泣きながら見ていた。



6/8(日)
朝8:30、先生が顔を見せてくれる。
私は安堵で泣き崩れそうになるも気丈に先生とお話をする。

一時間もしゃっくりが止まらなかった事、手足がむくんでいる事、
血痰が出た事、私達の声に涙で反応してくれる事など、お伝えする。

「なんとか今日も持ちこたえて欲しいなぁ」先生がボソッと仰る。
2人で祈る気持ちで父を見つめる。
「少しは寝られましたか?」と私を気遣ってくださる。
「手を放すと父が寂しがるから・・・」と言うと、うん、うんと話を聞いて励ましてくれる。
呼吸音がおかしいのでまた痰をとってもらう。

今日は救命救急の当直なので、また手が空いたら顔を出しますね。
と言うそばから救急車の音がする。
先生が行ってしまうと、また不安が押し寄せる。

看護師さんが代わる代わる点滴を変えたり、オムツの交換や痰をとってくれる。
熱は相変わらず40度から引かない。
氷枕がすぐに熱くなる。

午前中に叔母と夫が来てくれる。
みんなの声がすると、またほんの少し反応するようなしないような・・・・
兄もまた駆けつける。

みんなが居るうちに少しは横になるように言われるが、父の傍に居たい。
お昼にみんなが帰ってからも、一人父の手を握り身体を撫でる。

高熱で頭や首が焼けるように熱い。
そのくせ段々、手足が冷たくなってきて不安に包まれる。
一旦引いた手足のむくみ。
このまま快方に向って欲しい。

兄が来てくれたので夕方のおにぎりを買いに行く。
久しぶりに外へ出た。
私はおにぎりひとつ食べると、ずっと続いてる下痢でまたお腹がペチャンコになる。

夕方から兄が仕事に行く。
夜、先生が顔を見せてくれる。
この頃には手足が紫色で冷たい、先生に診て頂くと
酸素が先端まで回らず血液が循環していないのだと説明された。
血圧はもう低すぎて測定不能になった。
氷枕を変える時、耳や首がものすごく熱いので
「可哀想に・・・・・」と私がつぶやくと先生も「うん・・・・」と頷き
一緒に交換してくださる。

「2日も泊まって身体、大丈夫ですか?」と気遣ってくださる。
少し空元気で明るく雑談。
先生が帰ってしまうと一気にまた不安な夜が始まる。

看護師さんが口の中の痰だけ取ってくれる。
もう苦しむ力もなくなり、父は何にも反応してくれなくなった。

ただただ苦しそうに全身で呼吸する。
父の頑張りに涙が止まらない。
必死で生きようとしている父の頑張りを目に焼き付けようと、
私は目を逸らさず父を撫で続けた。

丸2日、丸椅子に腰掛けている私に看護師さんが背もたれのある椅子を用意して下さった。
もしかして、もう少し長期戦になるのかな?と、少しだけ期待した。

昨日はやたら大きく揺れていた心電図の波。
身体全体で呼吸しているから心拍数も呼吸数も正常値をはるかに超えていた。
それが段々と小さくなり、今はいつ停まっても不思議でない状態になっている。

静かで寂しい病室で、ひたすら父の顔と心電図を交互に眺める2日間。
私は何時間もトイレにも行かず父を見ていた。
なんとか朝まで頑張って欲しい!

夜11:00を回った頃から看護師さんの出入りが多くなる。
点滴を変えたり氷枕を変えたりしてくださる。

心電図の酸素の値が消えた・・・・・
もう読み取り不能になったのだと理解し、身体が震えた。
心拍数と呼吸数の値がどんどん小さくなる。
冷たくなった手足を撫で続ける。

夜11:33その時は来た。

ドラマでしか見たことの無い、心電図がただの一直線になってしまった。
ツー・・・・・っと鳴り響く音が耳に残る。
看護師さんに
「お別れをしてください」と言われる。

私は父に「頑張ったね、しんどかったね」と声をかけ
父の頬にキスをした。


仕事で運転中の兄に連絡して事故でも起こしたら・・・・
躊躇し、夫と叔母にだけ連絡を入れた。

20分後、先生が自宅から駆けつけてくださり
「お兄さんに連絡はとれましたか?」と聞かれ
「運転中に気を動転させたくないので、全部ひとりでやります」と答える。
先生は「そうですね・・・運転中ですもんね・・・」と言い
死亡確認を始めた。


私一人で死亡確認を聞く。
「6/8 午後11:56 死亡が確認されました」
先生の声が胸に響く。
私は父と先生に深くお辞儀をした。


「身体をお清めしますから一旦席をはずしてもらえますか?」と言われ
携帯が使えるデイルームへ。
迷った末、寂しがり屋の父を一人で自宅に連れて帰るのが躊躇われ
やはり兄に連絡を入れた。

兄は「純ちゃんひとりに立ち合わせて辛い思いさせたね、ごめんね」と言ってくれた。
葬儀屋に連絡を取り1:20頃、父を迎えに来てくれると言う。


デイルームまで先生が様子を見に来てくださる。
「最期まで先生に診て頂けて、父も嬉しかったと思います。ありがとうございました」と伝えると
「いえいえ・・・最期の2日間、話も出来ない状態で申し訳なかったです・・・・
あと1ヶ月でも2ヶ月でも緩和病棟で過ごせたら・・・と思ってたんですけど・・・・」と
言葉をかけてくださる。

お清めが終わり、綺麗に整えて頂いた父の傍へ戻る。
入院中の荷物を片付けているところへ兄が駆けつけた。
兄もまた先生にお礼を述べる。

死亡診断書を受け取り支払いを済ませる。
荷物を車に運び、葬儀屋の到着を待つ。

1:20先生と看護師さんに見送られ、父と兄が葬儀屋の車に乗り
私は自分の車で後を追う。
駐車場代金¥6,600也、父と過ごした2日間をお金に換算されたようで悲しかった。


自宅に戻った父は赤ちゃんのような可愛らしい顔で微笑んで
帰宅できた事を喜んでいるようだった。
母と姉のお仏壇の前で安らかに眠っている。


もう痛くないね、もう苦しくないね。
本当によく頑張ったね。
お疲れ様でした、おとうさん・・・・・


葬儀屋さんが枕経の仮祭壇を作ってくれてお参りをする。
次々と葬儀の打ち合わせが進められる。
母と姉の時の記憶で進行はスムーズに。

葬儀屋が帰り、兄は別の部屋で仮眠を取る。
私は久しぶりに実家のお風呂に入り、父の横で添い寝した。
この時、既に朝の4:00.
お寺や四国の親族に連絡するには早すぎるので、1時間ほど横になる。
久しぶりに身体を横にしてみたものの一切眠れない。

心電図の音が未だ耳から離れず困った。
父の苦悶する顔を思い出しては、振り払うように隣で眠る安らかな顔を眺める。


おとうさん、本当に本当にありがとう。
話し好きだったおとうさん、たくさんの方々に賑やかに送り出してもらえるよう
告別式まで頑張るからね。

今夜は一緒に寝ようね、最後に甘えさせてね、おとうさん。


父との濃厚な時間が過ごせた事に感謝。
母と姉が突然逝ってしまい、高速を飛ばしても間に合わなかった分、
父との時間は神様からのプレゼントかな。

死が迫ってくる恐怖に怯えつつも、一生懸命明るく振舞った父。
心から尊敬しています。
ありがとうございました。


合掌

2008-06-13 22:38 in 自分 | Comments (29) #

2008年6月12日 (Thu)

父との記憶


たくさんのお悔やみのメールやコメントをありがとうございます。
お一人ずつお礼の返信をしなくてはいけないところですが、
まだ気持ちのゆとりがありません。

ここに前回6/4のブログ以降の父の経緯を書いてみます。
勝手ですが、これをお一人ずつへの返信と受け取っていただけたら嬉しいです。
ただ長くなるので全て読んでいただくには気が引けますが、
父と自分の記憶の為にも書いてみます。


6/4(水)
昼間病院で逢ったのに、19:20頃父から電話が入る。
動けない身体で看護師さんに無理を言い、公衆電話まで車椅子に乗せて貰ったらしく
「どうしたん?」と聞くと「隣のベッドの人がな、ウンウン唸っとる。ワシもあないなるんかなぁ・・・」と不安そう。
「あんまり悪いように考えたらアカンよ」と言うと珍しく黙り込み、
「お寺にな、近々ワシの葬式あげてもらわなあかんようになるって連絡入れてくれるか?」と言う。

この時点では緩和病棟への話を進めてる最中で、先生も私もまだ生きてくれると信じていたので
「縁起でもないこと考えんとき」となだめた。
それでも「頼むわな、すまんな」と気弱に電話を切った父。
自分ではもう最期の日が迫っているのを解っていたのかな・・・・真剣に聞いてあげずにごめんね・・・



6/5(木)
いつものように病室を訪れると父の姿がない。
ナースのみなさんは毎日私の顔を見るので名乗らずとも知っていて
父の部屋が急遽、個室に変わったことを報せくれる。

個室に行くと心配したより元気そうで「待っとった」と可愛らしい事を言ってくれる父。

この頃は食事も出来ず全て点滴の為、ミルクのみ人形のように管から入れた水分が出てしまうようだ。
オムツでは追いつかないのか、毎日パジャマが3枚ほど洗濯物に出ていた。

着いてすぐ1階のコインランドリーで父のパジャマやタオルを洗濯する。
洗濯機のスイッチを入れ病室の6階でエレベーターを降りると
3人の看護師さんに囲まれエレベーターのまん前に車椅子の父が居た。

検査でも受ける事になったのかと慌てて近寄ると「娘を待っとるって言って」と看護師さんが笑う。
「そんな事で忙しい看護師さん、付き合わせたらあかんよ。
下に洗濯に行くって言ったやろ?」と笑うと
「はよう顔が見とうてなぁ」と言う。
みんなが居なかったら抱きしめてあげたい気分だった。
看護師さんに付き合ってもらってすみませんと詫びると「好きで居ただけよ、人気者だもんね~、ハーレム状態だよね~」
と笑ってくださる。

病室に戻り担当看護師の方に昨日の夜の経緯を尋ねるのが日課になっていて
熱が高い事、昨日の深夜、父は動物的な大声で「痛い~!苦しい~!」と叫んだらしく
同部屋の人に迷惑なので個室に移された事などを教えてもらう。

午後から緩和病棟の先生2人が父の問診に来て下さり、父は一生懸命答えるが質問にうまく答えられていなかった。
「えぇっと・・・なんと申しますか・・・えぇっと・・・」と繰り返し、話し上手な父らしくない応答だった。

しばらく痛がる身体をさすってあげると身を預けてくる。薄くなってしまった背中や骨ばった肩が悲しい。

もう一度コインランドリーに戻り、出来上がった洗濯物を取りに行く。
部屋に戻ると父は疲れ果てたように眠り始めたところだった。
洗濯物をたたみながら父の寝顔を見ていると
今度は担当医の先生が顔を見せてくださる。

「先生が来て下さったよ」と起こすと父は私に向って「これはこれは先生」と会釈する。
「これは私、先生はこちらだよ」と教えると「あぁ、どうもどうも」と挨拶し先生と3人で笑う。
緩和病棟への最終希望確認に来てくださったそうで、父は自分で「緩和病棟に行きたいです」とハッキリ答えた。
その後、少しだけ廊下で先生と2人きりで話し、部屋に戻ると「もう遅うなるで帰り」と父は言う。

「うん、じゃあまた明日来るね」
「ありがとう」
「またね」
「ありがとう、さようなら」


まさか、これが父との最後の言葉になるとは、この時思ってもみなかった。


6/6(金)
昼前に私が到着すると父はよく寝ていた。
担当看護師さんに私が居ない時間の父の様子を聞く。
午前中、看護師さんに車椅子を押してもらい少し病院内(自分の病室フロアのみ)を散歩。
「熱もあるけどご機嫌だったし、昨日の朝は唄まで飛び出したよ。」との事。
徳島の阿波踊りの歌を披露したそうだ。
再入院してから徳島の話がやたら多くなった。
故郷に帰りたかったんやね、寂しかったんやね・・・・

午前中動いたから疲れたかな?3時間、部屋に居ても私に気づくことは無かった。
この日は先生にも逢えず、父とも話せず病院を後にする。

夜、父がちゃんと目覚めたか心配で病院に電話しようか迷い受話器を持つも、
夜分に迷惑かと思い直して受話器を置く。



これより先、最後の2日間は壮絶でした・・・・
記憶を辿るのに疲れたので今日は休みます。
長いのに読んでくださって、ありがとうございました。
続きはまた書きます。


2008-06-12 22:52 in 自分 | Comments (24) #

2008年6月11日 (Wed)

ありがとうございました


6/8夜、闘病中の父が息を引取りました。

たくさんの応援を頂いてたのに残念です。
最期まで頑張りぬいた父らしい立派な最期でした。

皆様への感謝の気持ちでいっぱいです。
本当にありがとうございました。




2008-06-11 16:48 in 自分 | Comments (36) #

2008年6月4日 (Wed)

久しぶりに父の事


5/17に再入院して依頼、現在も闘病中の父。


ブログお休みしてる間に色々ありました。
再入院の翌日、私が病院から帰ると家に父が変な電話をしてきた。
???と思いつつ翌日も病院に行くと、つじつまの合わない事をチラホラ喋る。
先生に相談したかったけど、その日は逢えずじまい。

そしてまた翌日病院に行くと、父が完全に壊れていた。
一日中幻覚症状が出て、わけのわからない事を言い続け全く別人になった。


この時点で私は仕事を辞めた。
3つ受けていた依頼のうち早々に2つ仕上げていたのと、あとのひとつは納期が先で
他の人への依頼でも間に合いそうだったので、迷惑のかからないうちに。


私には父より大切な仕事はありません・・・と謝ると上司も納得してくれた。
私事なのに頑張れと応援してくださった上司に感謝。


父の癌はもう心臓や食道も圧迫し始め、痛みに耐えられないようで
麻薬を使いはじめていた。
ただその麻薬も他の人よりはるかに少量なので、こんなに幻覚が見えるのは
頭への転移も疑われるとの説明を受ける。

頭への転移がみられた場合、予期は確実に短くなると・・・・
その場合、呼吸器など着けて延命するかどうか・・・・
などと家族の意見を確認された。
先生が親身に慰めてくださる。

その日、夕方からMRIとCTを撮り転移の確認。
祈る気持ちでひとり病室で涙。
すぐに兄も来てくれて、ふたりで話す長い長い時間。

父が病室に戻り先生から説明を聞く。
MRIは、父が長時間じっとしている事が出来なくて撮影出来ませんでしたと。
CTで見る限りでは、頭への転移はみられませんでしたと。

良かった・・・本当に・・・


で、やはりいくら少量でもこの薬は父に合わなかったようなので別の麻薬で
様子を見ることに。
たぶん入院で環境が変わったりした精神的負担も手伝っての症状だったのではないかと思う。
その夜から薬を変えてもらうと翌日から父は少しずつ普通に戻ってきた。
ただ薬が抜け切るまでは、おかしな事も言ったし痛みもひどいようだった。


1週間ほどで完全に元の父復活。
一般病棟では痛みの緩和に出せる薬の制限があるらしく、緩和病棟への
移動も視野に入れてみては?と先生から勧められる。

同じ病院内にある緩和病棟へ移れば、完全個室で家族が何時に来ても面会でき泊まる事も出来る。
主治医は変わりなく父の好きな先生で、プラス緩和病棟の先生も付いて下さる。
痛みが少ない時には落ちてしまった筋肉を戻すべくリハビリも取り入れる。

そう言う病棟での治療はどうですか?と本人の意思確認。
「リハビリは嫌ではないですか?」の問いに
「はい、やりたいです。トイレくらい自分でいけるようになりたいです。」と父。
「苦しいかもしれませんよ、頑張れますか?」と聞かれ
「はい、頑張ります!一生懸命頑張ります!」と答える。
このやり取りの時、父が起こせない身体ながらも寝たまま直立不動の姿勢で
答えるのが可笑しかった。


主治医の先生が移動手続きの希望を出して下さり、書類が受理された時点で面接。
本人と家族も立ち会っての面接が行われ、その後審査があり通れば移動。
ただ現在のところ希望者が多く満室で空き部屋を待ってる人も多い。
父の病状から行くと優先される可能性も無きにしも非ず・・・という感じらしい。


今の段階では面接待ちをしつつ、緩和の先生が毎日3~4人で一般病棟に足を運んで下さり、
父と話をし痛みの緩和状態や幻覚が出ていないかなどをチェック。
主治医の先生と相談して薬の量や種類を微調整してくれている。


昨日から食事も薬も飲み込めなくなり栄養剤と貼り薬に変更。
今日は少し幻覚が見えるも自分で「あ~、幻覚やなぁ・・・」と理解している様子。
この程度で痛みが抑えられているなら、このまま様子を見ましょうとの事。


先生曰く、簡単な計算問題や漢字をスラスラ答えるので、かなり博学な方だったのでしょうと・・・・
「何をおっしゃいますやら・・・うふふふ」と嬉しそうに口をすぼめて笑う父。
また痛みがひどくなれば、自分や私が誰かも解らなくなる状態に陥るだろう。
それを見るのは辛い。
でも父の痛みや苦しみが少しでも緩和されるなら致し方無いのだろう。


たくさんの先生や看護士さんに見守られ、必死に頑張る父。
毎日私と兄が来るのを待ちわびている父。
私が帰る時間になると手を握り寂しがる父。
わがままを言って私を困らせる事も多々あるけれど、今の時間を大切にしたい。

前のように退院してあれがしたい、これがしたいとは言わなくなった父。
それでも病院で頑張ると言う父。

「最高の息子と娘に恵まれまして」と私に自慢する父。
なんで私に?(笑)

「娘が毎日600キロも運転して逢いに来てくれます」と先生に話す父。
600キロやなくて60キロやからね。

視力がなくなってきてしまい先生が指す指を答えるのに・・・
「これは何本?」「1」
「これは?」「2」
「これは?」「3」
「じゃあこれは?」「フォ~!」
・・・・なぜか4だけ英語・・・・
「レイザーラモン???」と私が小さい声でつぶやくと先生が笑われる。
先生が笑うと父も嬉しくなって「えへへへへ」
私はなんかもうハニワ顔で金縛りにあいそうですわ・・・・


以前のように前向きにとはいかずとも、何とか痛みを堪え頑張ってます。
何も解らず、うんちまみれになっちゃったりする事もあるけど頑張って生きてます。
とにかく私も一緒に頑張るからね。
毎日欠かさず60キロ運転して逢いに行くからね。


ブログお休み中、たくさんのメールを頂いて返信もせずにごめんなさい。
心配してくださって本当に感謝してます。
本当はひとりずつお礼を言いたいけれど、もう少しごめんなさい。
PIXYも元気でおりこうに留守番してくれてるよ!
いつもいつも本当にありがとう。
感謝を込めての近況報告です。
2008-06-04 18:36 in PIXY | Comments (43) #