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中央アルプス らむちぃ 10月10日(木) 07:22
 sudoさん、おはようございます。

 sudoさんの文章にあった「聖職の碑」ですが、
私は映画で見ました。たしか、芦田伸介と三浦友和が主演していたと思います。

 私も一度だけ中央アルプスを縦走しました。たしか、90年代の終りころだったでしょうか。
sudoさんとは違い、ロープウェイで千畳敷カールまで登り、木曽駒ケ岳を往復後宝剣山荘に泊り、翌朝から南へ縦走を始めました。
 この年は水不足の年で、山荘では縦走する人だけに、1リッターの水を分けてくれたので、よく覚えています。

 木曽義仲が越えたという木曾殿山荘で一泊しましたが、ここでもドラム缶の天水が1リッターのみの給水でした。

 翌日は空木・南駒を越えて越百山から越百小屋に一泊しました。越百山の頂上にたくさんの赤トンボが舞っていたのが、印象深い思い出です。

 越百小屋の小屋番に水場を聞いたところ、「沢沿いに15分降りて行けば水が出ている」と言われ、意気揚々と下ればたくさん水が流れていて、ここ数日の水不足を癒すべく、がぶがぶ飲みました。そして裸になって、体中を洗いました。

 一回だけの中央アルプス縦走でしたが、水不足もあり、印象深い山行になりました。

sudo 10月11日(金) 17:50
らむちぃさん、こんにちは。
中央アルプスを北から南まで重曹した訳ですね。
私は稜線上で悪天候に合うのが嫌で、一つずつピストンしました。
将棋頭山、木曽駒、桧尾岳、空木岳、南駒ヶ岳、越百山、などです。
積雪期に登ったのが多いです。

sudo 10月13日(日) 14:15
正誤
重曹→縦走
登山と体力 らむちぃ 10月 9日(水) 07:08
 sudoさん、おはようございます。

高齢者の救助要請で、「疲れて歩けない」というのを、今年は何回もネット上でみましたが、やはり高齢になると体力は落ちるし、これまでの感覚では登れなくなるものなのでしょうか?

 今朝の朝刊に掲載されていましたが、富山県の小学生の恒例である立山登山が、小学生の体力不足と教員の働き方改革で、存続の危機にあるとか・・・。

 私も体力がある方ではないので、今は登山を控えていますが、涸沢ぐらいまでは登りたいなと思っています。

sudo 10月 9日(水) 17:21
らむちぃさん、こんにちは。
小学校で登山など、もう難しいでしょうね。
新田次郎の”聖職の碑”という小説を思い出しました。
大正時代に木曽駒ヶ岳の麓の高等小学生の行事で登山をし、山で台風に遭い遭難した話です、将棋頭山から木曽駒ヶ岳の方へ進んだところに”聖職の碑”の記念碑がありますね。私はロープウェイを使わずに聖職の碑ルートで木曽駒ヶ岳へ登りました。
山の話 らむちぃ 10月 6日(日) 15:49
 sudoさん、こんにちは。涼しくなりましたが、天気がハッキリしませんね。

 sudoさんは単独で沢に入渓しますが、私も昔は表丹沢や奥多摩の初級者向けの沢を何本か遡行しました。ですが、両岸の圧迫感が気になるし、また、滝の登攀にも自信がなくて、沢はあきらめました。

 それからは、普通の登山道ではなくて、ライト・バリエーションのルートに変更しました。
関連の本を読み、ルート図もコピーしたりして、いざ現地に向かうのですが、取り付きを探すのにまず苦労しました。登り始めれば、道形はうすくついている、赤テープなども思いの外あって、あまり苦労することなくルートファインディングできて、登山道に合流できて頂上を目指しました。

 最初に入ったのが奥多摩のタワ尾根で、ここから登れば私の好きな酉谷山避難小屋で一泊出来ます。 もう、東日本大震災以前の古い話ですが、今頃は紅葉が綺麗だと、今でも思い出すことがあります。
 なにしろ、植林ではなくて、自然林でしたから・・・。

sudo 10月 7日(月) 09:40
らむちぃさんこんにちは。
私は体力が落ちていることを感じているので、標高差の少ないところとか、標高差があってもm途中で区切って幕営できるところなど探しています。
高齢者が下山時に疲労で歩けなくなり救助を求めた話など、目に入ってくると恥ずかしいですね。
[沢登り(続々) らむちぃ 9月29日(日) 05:34
sudoさん、おはようございます。

 先日遡行された隣の沢には、戦時中に墜落した飛行機の慰霊碑があるとの事ですが、私が塩見・荒川三山・赤石岳を縦走して、椹島に下る途中で、やはり、戦争中に遭難した飛行機の慰霊碑を見た事があります。赤石岳や小赤石岳が望める良い場所で、ここで休憩したのを思い出しました。

 私は鉄道は好きですが、飛行機はどうも落ち着かなくて好きになれませんが、sudoさんはいかがでしょうか?

sudo 9月29日(日) 19:57
らむちぃさん、こんにちは。
鉄道は乗るのは嫌いではありませんが、特別鉄道ファンではありません。飛行機も乗るのは嫌いではありませんが、あまり乗る機会がありません。
私は遠出をする時は基本的に自家用車です。
たまにバイクにも乗りますが、歳を取ってからは、100kmくらいの長距離を運転すると、右手首が痛くなるようになってしまいました。
沢登り(続) らむちぃ 9月28日(土) 15:27
 sudoさん、こんにちは。お彼岸も過ぎて、だいぶ涼しくなってきて、沢登りのシーズンも終了でしょうか?

 それにしても、上野原近くの沢なんて、よく探しましたね。私はこの周辺だと、扇山と百蔵山を歩いた程度です。 沢筋は大丈夫のようでしたが、帰りの尾根筋で道が消えた時には、焦りませんでしたか? 私も一度、奥秩父の沢沿いの登山道を下っている時、道を見失って焦ったことがあります。
 ましてや、里山の様なところは、道が錯綜して、わかりずらいですからねぇ・・・。

sudo 9月28日(土) 19:20
らむちぃさん、こんにちは。
赤沢は地図にも出ていない小さな沢ですが、滝は登りごたえがありました。登山道がはっきりしない所はGPSが役に立ちますね。
赤沢は地図上にも何もない所ですが、一本南にある阿寺沢の近くには「廣瀬大尉戦死碑」というのがあります。米軍のB 29は高高度で飛来したので迎撃困難でしたが、これを撃墜するために高高度まで上昇できる双発複座式の屠龍という戦闘機が作られましたね。私は”屠龍”という命名が好きです。昭和20年2月に東京へ空襲に来たB29に対し体当たりを敢行した屠龍が阿寺沢に墜落したそうです。その記念碑があるので行ってみたいと思っていましたが今回は行けませんでした。
沢登り らむちぃ 9月15日(日) 07:28
 sudoさん、9月になっても猛暑ですね。まだまだ、沢登りが楽しい時期ですね。

 峰谷の奥の沢など、良く調べましたね。私は昔、バスで峰谷で降りて、奥集落から石尾根を歩いたことがあります。峰谷のバス停には、交番がありましたが、今でも残っていますか?

 流程の短い沢のようですが、巻道やら懸垂下降などもあり、気の抜けない山行のようですね。

sudo 9月15日(日) 18:04
らむちぃさん、こんにちは。
暑いし、突然の雷雨の可能性があったりして、なかなか外出の計画が立てられません。地球温暖化でこんな事になると予想していませんでしたが、台風は凶暴化するし、年中線状降水帯は多発するし、大変ですね。

峰谷のバス停のところには交番はなく、もっと峰谷橋に近いところに一ヶ所あったと思います。
本の話(続) らむちぃ 9月 4日(水) 11:00
 sudoさん、こんにちは。

 ご実家は横浜でしたか。私も横浜に遊びに行った時、下道で『生麦』と標識があったので、「生麦事件の現場はこの辺か」と思って、何か碑でもあるのかな?と見回してみましたが、何もありませんでした。 小説では海のそばの松並木が続く所とありましたが、今では全然その面影すらありませんね。

 『ニコライ遭難』は読んだことがありませんが、高校の歴史の時間に習ったことを覚えています。
大津でニコライが斬りつけられその裁判で大国ロシアに時の総理大臣が配慮して司法に圧力をかけたのですが、当時の最高裁長官が断固として受け入れず、司法の独立を守ったと教わりました。
 小説ではその辺が中心になっているのでしょうか?

sudo 9月 4日(水) 19:31
らむちぃさん、こんにちは。
当時の裁判官の信念で、司法の独立が保たれた、ということがメインだったと思いますが、このことと比べるとK国の司法はひどいですね。
本の話 らむちぃ 9月 3日(火) 05:54
 台風10号も過ぎて、昨日は久々に青空を拝めました。被害の大きい所には、これから後始末が大変でしょう。早く復旧すれば、よいですね。

 ブックオフで吉村昭氏「生麦事件 上下」を買って読んでいるところです。吉村昭氏は本当に丹念に記録を調べているのみならず、簡潔な文章にしていて、読み進めるのが【苦】になりません。  

 生麦事件から薩英戦争・長州征伐ひいては薩長同盟と幕末物語がてんこ盛りで十分に楽しめました。

 本文の中に薩摩市内を砲撃したイギリス艦隊の事を、ニューヨーク・タイムズが紙面で非難したとありましたが、当時も市民を巻き込むような戦い方はダメだと考えられていたのでしょう。今の時代にも通じる視点だと思います。

 歴史上の疑問点が、何個か氷解された良い読書でした。

sudo 9月 3日(火) 11:27
らむちぃさん、こんにちは。
私は出身が横浜で、実家へ帰る時に生麦JCTを通過する度に、生麦事件を想起していました。
生麦事件よりも少し後の事件を扱った”ニコライ遭難”という小説もありましたね。
夏休み らむちぃ 8月25日(日) 01:57
 sudoさん、こんばんは。
 高校野球甲子園も終わり、夏休みも終わりに近づいています。sudoさんの子どもの頃の夏休みはいかがでしたか?

 私の子供の頃の夏休みといえば、弟2人と共に母の実家である筑波山の麓の家に1ケ月預けられるのが恒例でした。農家であるその家は大きな茅葺屋根の平屋で、私の家は狭かったので、大いに羽を伸ばして、そこでプロレスごっこなどをいとこ達としたものです。

 当時はかまどがあり、薪をくべてご飯を炊いていましたし、お風呂も五右衛門風呂でなぜお湯の上に板がプカプカ浮いているのかわかりませんでした。

 昼は畑の手伝いやセミ取り、夕方はかまどや風呂の焚き付け、夜は蚊帳の中でテレビを見ていました。夏休みの宿題などはすっかり忘れていたので、ちょうど今頃は大変でした。
 大きなスイカを持って(といってもいとこ達ですが)筑波山に登ったこともありました。

 今から思えば、幸福な良い時代でした。

sudo 8月26日(月) 07:49
らむちぃさんこんにちは。
私は小学校の夏休みには、昆虫採集をよくやっていました。
蝶の鱗粉転写なども小学校の先生に教わってやっていました。
本の話(続) らむちぃ 8月22日(木) 06:51
 sudoさん、おはようございます。

 文学全集があるのはよいですね。最近では、出版不況のためか全集を見かけませんね。
 私も中・高生の頃、全集をそろえたかったのですが、高くて手が出ませんでした。 あの頃は文庫も岩波と新潮ぐらいしかなくて、岩波はハトロン紙のカバーがついて、価格表示は星マーク一つが50円だったと思います。
 文庫本も高くなりました。


 藤村の『破戒』について書かれてありますが、確か被差別集落の話でしたね。この被差別集落の別の物語で『橋のない川』はご存知でしょうか?この本は中学生の頃、国語の授業冒頭に毎回5〜10分若い女性教師が朗読してくれた思い出があります。
 その時に、『破戒』の事も教えてもらった気がします。

sudo 8月23日(金) 07:03
らむちぃさん、こんにちは
”橋のない川”は存じ上げませんでした。
随分高齢になるまで執筆していたようですね。
本の話と山の話 らむちぃ 8月20日(火) 11:32
 sudoさん、こんにちわ。

 『海も暮れきる』の引用をありがとうございました。 私も最近、山頭火や放哉それに山崎放代などが気になり、本を集めてみましたが、まだ読んではいません。

 若いころは、【石川啄木】に興味をそそられ1ケ月間冬の北海道を周遊券で回ったこともこともありました。函館・札幌・釧路など見て回ったものです。

 そうした時期が過ぎて、30代過ぎに山に戻りました。なんとなく、一人の方が気が楽で、単独行を続けていました。

 sudoさんが「山は業」であるのなら、私の山は『漂泊』だったのかもしれません。
 先人達への憧れを込めての・・・。

sudo 8月21日(水) 15:56
らむちぃさん、こんにちは。
コメントありがとうございました。
以前にも書きましたが、我が家には昭和40年ごろ出版された中央公論社の全集『日本の文学』があります。滅多に読まないのですが、島崎藤村の「破壊」を読んだら、長野県の上田や飯山あたりの地理の勉強になりました。
本の話 らむちぃ 8月19日(月) 11:17
 sudoさん、こんにちわ。
 台風の被害も少なくてよかったですね。自宅近辺は、雨や風もそんなに激しくなかったです。sudoさんの近辺はいかがでしたか?

 昨日、読書をしていたら、尾崎方哉の事が書いてあって、この人はあの山頭火と同じ自由律俳句の人ですが、山頭火と同じく酒で身を持ち崩して、小豆島の小さな庵で亡くなったそうですが、この人のことを吉村昭氏が調べて作品にしたとありました。題名は『海も暮れきる』なのですが、sudoさんは読んだことがありますか?

sudo 8月19日(月) 15:19
らむちいさん、こんにちは。
”海もくれきる”は2回ほど読みました。
このHPの”こんな本読んだ”に書いた記事を少し引用します。
尾崎放哉は自由律俳句というのを書いており『せきをしても一人』という句などはよく知られています。尾崎は東京大学を卒業し一流保険会社に就職しながら、酒癖が悪く職を追われ、妻にも別れられ、結核に体をむしばまれて、お金もなく晩年は小豆島の小さな庵で壮絶な死をとげます。吉村昭も若いとき結核に苦しめられた経験があり、作家の経験がだぶってリアルな表現になっています。便所へも歩いていけなくなった時に下の世話をしてくれたのは、隣に住む漁師の妻で、最後をみとったのはその夫でした。私はこの本を日曜の夕方買ってきてその日のうちに読み終えてしまいました。(引用ここまで)
尾崎放哉はらっきょうと味噌を保存食としていたそうで、カレーなどでらっきょうを食べる時、いつも尾崎放哉を思い出します。
糸井邦夫木版画集「尾崎放哉の詩』というのも持っています。味のある版画に奉斎の句が彫られています。

sudo 8月19日(月) 15:26
誤字訂正 奉斎⇨放哉


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